有田焼の歴史を巡る

- Arita-cho, Saga

日本の磁器発祥の地として、今日までの400年、ゆるぎのない知名度とブランド力を誇ってきた有田。フードコーディネーターの長尾さんと九州の器をめぐり始めて1年ほど。秀吉の朝鮮出兵により連れ帰られた陶工たちが、独自の焼き物を作ってきた歴史を、九州各地で目にし、ようやく、磁器の発祥の地に辿り着いた。しかしながら、有田という産地は、藩窯として守られてきた歴史的背景を持ち、同時に偉大な伝統窯が存在し、また、戦後の窯業の中心地としての圧倒的な生産力を誇ってきたこともあり、個人で訪ねてその魅力を把握するのはなかなか難しい土地でもある。
というわけで、まずは、有田の歴史の勉強から始めよう。日本の磁器のルーツだけあり、九州陶磁器文化会館など、歴史を展示する博物館も多い。時間があるなら、そうしたところ、ゆっくり訪ねてみるのもいい。

有田焼の発祥から繁栄まで

日本の磁器の始祖・李参平の住居跡の石碑。

日本の陶器(焼き物)の歴史は、12000年前に遡ると言われ、世界でも最も古い伝統を誇る。しかしながら、磁器の発祥は、中国や朝鮮からに遅れること1000年。かの国からの技術の伝来を待たなければならなかった。
戦乱に明け暮れた豊臣秀吉の時代には、武将たちの間に利休の導いた茶の湯が流行し、秀吉も、当時珍重された高麗茶碗の故郷である朝鮮半島へ関心を深めていった。そして朝鮮出兵時に、佐賀藩主であった鍋島直茂は、何千人という陶工を連れ帰る。その中の一人に、李参平がいた。来日当初は、佐賀の多久で陶器を焼いていたが、納得がいかず、磁器の原料である白磁石を求めて旅に出る。そして1616年、ついに、有田の泉山で良質の白磁石を発見し、窯を構え、日本で初めて白磁の焼成に成功した。この李参平こそが、有田焼の祖なのである。
初期の有田焼は、白い素地に呉須(コバルト)で文様を描いた藍の染付が多かったが、磁器発見の30年後には、酒井田柿右衛門が赤絵の技法を生み出し、色絵の磁器が盛んに焼かれるようになる。1650年代に入ると、オランダの東インド会社を通じて、ヨーロッパ諸国に輸出されるまでに成長、規模を広げた。当時、伊万里の港から荷を積んで船が出たため、有田焼は海外ではIMARIと呼ばれ、豪華な色絵や金襴手は、欧州の王侯貴族の羨望の的だった。

天狗窯で出土した初期伊万里の陶片。17世紀初頭のもの。

守り継がれた伝統

現在の有田焼といえば、佐賀県有田町の周辺で焼かれた磁器のことを指す。つまり、その総称だ。透明感のある白磁に、藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多い。これらは、400年近い有田の歴史の上に立つものだが、歴史的に論じられる有田焼とは、古伊万里、柿右衛門様式、鍋島藩窯の3つの様式の総称である。
古伊万里 江戸時代に焼かれた濃い染付と、赤絵の具を贅沢に使った金襴手と呼ばれる様式のことを指す。伊万里の名は、前述のように、伊万里の港から船積みされたことによるものだ。特に17世紀前半に焼かれた器を初期伊万里と区別する。

有田焼の系譜

現在の有田焼といえば、佐賀県有田町の周辺で焼かれた磁器のことを指す。つまり、その総称だ。透明感のある白磁に、藍色の染付、赤、黄、緑などの色絵を施したものが多い。これらは、400年近い有田の歴史の上に立つものだが、歴史的に論じられる有田焼とは、古伊万里、柿右衛門様式、鍋島藩窯の3つの様式の総称である。
 

濁手と呼ばれる乳白色の生地に、極めて繊細な花鳥風月を左右非対称に描いた、典型的な柿右衛門様式。色絵柴垣松竹梅鳥文皿。

● 古伊万里
江戸時代に焼かれた濃い染付と、赤絵の具を贅沢に使った金襴手と呼ばれる様式のことを指す。伊万里の名は、前述のように、伊万里の港から船積みされたことによるものだ。特に17世紀前半に焼かれた器を初期伊万里と区別する。

● 柿右衛門様式
初代柿右衛門が、1640年代に赤絵付けの技法を発明したことにより、飛躍的な発展をとげた有田焼だが、柿右衛門様式の特徴は、濁手(にごしで)と呼ばれる温かみのある乳白色の素地に、余白を充分に残しながら、極めて繊細な赤黒の線と、赤緑黄青紫の5色を基調に、大和絵的な花鳥風月を左右非対称に描写的に描いた点にある。

● 鍋島藩窯様式
上述の通り、有田焼は藩で擁護されてきたが、なかでも、鍋島藩では、献上用の極上品のみが焼かれ、それを特に、鍋島様式と区別している。さらに、皇室に納められたものは「禁裏様式」と呼ばれた。染付と赤、青、緑の3色を基調にした色鍋島、精緻な染付の藍鍋島、青磁の3タイプあり、青みがかかった地肌や、縦に縞の入ったくし高台、裏文様に特徴がある。


ページトップへ戻る

Follow us!